2015年04月27日
木曜日のボールが帰ってきた!

『 木曜日のボール 』 が帰ってきた

私にとっては絶妙なタイミングだっただけに
見つけたときはメチャクチャ嬉しかった~。
テンションあがった~。
あ~、また月一で、近藤篤に会える!
( 前は週一だったけど )
サッカーマガジン毎月買おうっと。
2013年08月04日
田中さんへ by Atsushi Kondo
高校2年生の夏休み最後の日。
静岡の街を歩いていたら、
ずっと憧れていたのサッカー選手にバッタリ会った。
1つ上のGK。
絶対に彼だと思って、後を追って、
勇気を振り絞って声をかけた。
「 Zさんですよね?」
どこからどう見ても本人なのに、彼の返事は
「 違います 」
だった。
一瞬、私の頭の中は真っ白になったけど、
次に私の口から飛び出した言葉は
「 違ってもいいから、握手してください!」
全く、人間は追い詰められると突拍子もないことを言い出す。
本当に違うかもしれなかった彼と握手をしてもらった私は、
家に帰ってすぐに手袋をはめて、
その握手の余韻に2~3日浸っていた。
ずっとずっと憧れていた人と会うチャンスが到来したとき、
そのチャンスを生かせるかどうかは、
もしかすると、ストライカーの才能があるかどうかと
似ているのかもしれない。
めちゃいいボールが来て、それをゴールできるかどうか。
点を取れるかどうか。
チャンスを生かせるかどうか。
ま、憧れの人に対するチャンスを生かすということが
どういうことかをまず考えておかなければいけないけれど。
私の場合、
ずーっと会いたかった人を目の前にしたら、
ドキドキしすぎて、体が震えて、
結局、言いたいことや伝えたいことは何も言えず、
あーあ、と、後で後悔しながら、
でも、素敵な一日だったと思うだろうな、きっと。
今日がそんな一日だったら良かった、とも思う。

2013年06月21日
ボールピープル

半年以上待ち焦がれていた本がやっと出た。
大好きなカメラマン・近藤篤さんの本。
コンフェデの前に出版したのが、近藤篤らしい。
私は、
サッカーが好きで、
サッカーボールが好きで、
サッカーを観るのが好きで、
サッカーボールを蹴る人が好きで、
サッカーについて話すのが好き。
ついでに、
サッカーが好きな人が好きで、
サッカーボールが好きな人が好きで、
サッカーを観るのが好きな人が好きで、
サッカーボールを蹴る人が好きな人が好きで、
サッカーについて話すのが好きな人が好き
みたい。
だから、
グランドとかスタジアムとか行くと、
そういう人であふれていて、
「 好き 」 という気持ちが何乗にも掛け合わさって、
たまらなく幸せな気持ちになる。
近藤篤さんもその類いの人で、
だから、
近藤篤さんの撮る写真には
サッカー愛がこれでもかというほど詰まってる。
そんな写真がい~っぱい載った
フォトブックのような本。
『 ボールピープル 』
『 木曜日のボール 』 と同じように
私が凹んだときに愛を補給してくれる大切な存在になる。
確実に。
ゴール裏のカメラマンの中に近藤篤を探しながら、
コンフェデがブラジルの優勝で幕を閉じるまでに
『 イパネマの娘 』 をポルトガル語で歌えるようになろう!
そう思った。
2012年05月11日
なでしこ離婚相談室のボール

約1か月前、京都に行った。
大学時代、私は、京都にある大学の
体育会サッカー部のマネ子をやっていたのだけれど、
そのサッカー部の創部50周年の節目と
50年のうち47年間監督を務められた監督の退職が
同時期に重なったので、記念パーティーが開かれたのだった。
あっ、ちなみに 「マネ子」とは、「マネージャー」 のことです。
体育会でマネージャーをやっているマネージャーのうち、
いったい何割くらいが、部員から 「マネージャー」 と呼ばれているのか、
甚だ疑問です。( 特に関西圏 )
パーティーの開始は午後1時。
ならば、午前中は京都を観光しよう!
ハードスケジュールも何のその、交通費の元を少しでも取ろうと、
主婦根性丸出しの私は、同期のキャプテン(岐阜在住)を誘って、
行きの新幹線で落ち合うべく、手はずを完璧に整えた(はず)。
ところが・・・
新幹線に乗ってボ~っとしていた時、彼からメールが入って、
「体調が悪いので、少し家で休んでから出掛けます。
待ち合わせの新幹線には乗れません。」
なぬー!? マジか!?
「今すぐ出てこい-!」
と、言いたいのをグググッと我慢して、
「そうですか、お大事に。私のことは心配なく。」
と、私にしては大人の返答をするしかなかった。
それから・・・ 途方に暮れた・・・
午前中に回る場所は、彼に会ってから二人で決めようと思っていたから、
どこに行くか全く決めていなかったし、
交通手段も、バスの経路も、何も下調べしていなくて、
完全にお手上げ状態。
迷子の迷子の子ネコちゃん状態。
でも、いつまでも子ネコちゃんでいるわけにもいかない。
京都は時速250kmで近づいてきているわけだし。
とりあえず、今年が辰年だからという、あまりに安直な理由で
天龍寺か竜安寺に行こうと決めて、
そこへ行くにはどうやって行ったらいい?
頭の隅っこに埋もれていた京都に関する細切れの知識を総動員させて、
思考をフル回転させてみる。
こういうときって、火事場の馬鹿力に似たパワーが働くんですね。
自分でもビックリするくらいに頭が働いて、
嵐山の天龍寺に行こう!
そう決めた。
京都の記憶をたどっているうちに、
そういえばグランドが雨でグチャグチャで使えないとき、
うちのサッカー部はロードに出掛けていたりしたんだけど、
「ゴールは千本釈迦堂な!」
なんてキャプテンが言っていたのを思いだして、
釈迦堂までランニングだなんて・・・
なんて京都な日々を送っていたんだろう、(当然だけど)
と感慨に浸ったり、
4月の嵐山は、それはそれは桜が見事で、
毎年必ず見に行っていたことを思い出して懐かしくなったりして、
こりゃ、嵐山に行くしかないね! と直感したワケです。
そんなこんなで、京都駅でJR嵯峨野線に乗り換え。
途中、昔住んでいた下宿の近くを電車は走り、
何となくタイムスリップしたような気分で、嵯峨嵐山駅に到着。
うん十年ぶりの嵐山は・・・
お祭りかと疑うほどの人の多さでした。
それからはひたすら歩く、歩く。
天龍寺でお目当ての雲龍図を見て、達磨大師に会い、庭園をそぞろ歩いて、
竹林を抜けて行く。
嵐山のメイン通りを楽しんで、渡月橋のふもとで一息。
さて、そろそろパーティー会場のホテルに向かわなければ。
烏丸御池まで、嵐電で行こうか、バスで行こうか。
嵐電だと乗り換えなければいけないけど、
ちょうど烏丸御池を通って三条京阪まで行くバスがあった。
ラッキー。 しかも京都バス。
京都市内の路線バスは、市バスと京都バスが走っていて、
市バスの方がメジャーな路線を走っていて、
京都バスは市バスが通っていない通りを縫って走るという感じ。
( もちろん、重複している路線はありますけど )
私は学生時代もっぱらマイナーな方の京都バスにお世話になっていたから、
京都バスっていうのも昔を思い出して良い感じ。
そう感じながら乗ったバスは、正にタイムマシンのようでした。
嵐山を出発して三条通に入り、
車折神社 (おお、懐かしい)
帷子ノ辻 (これも懐かしい)
太秦 (ここ毎日自転車で通ったよ)
映画村前 (あ~、こんなとこ通るなんて)
丸太町通りに出て、
太秦教習所 (私、ここで運転免許取りました!)
双ケ丘 (ここも毎日のように通ったよ)
妙心寺から円町へ。 (おお~、えんまちだよ、えんまち!)
タイムマシンって、本当に存在するんですね。
魂はすっかり大学生に戻ってしまいました。
そんな「ひとりタイムスリップ」をした私が
烏丸御池でバスを降りると、
そこには同期のサッカー部員が二人。
あ~、こんなこと学生時代にもよくあったよね。
試合の帰りなんか、よく待っていてくれたよね。
本当に、昔に戻ったみたい。
当時の自分の日常を思い出し、
今こうして当時の自分を客観的に見ることができて、
本当に良かった。
本当にありがたい。
普段は忙しくて思い出す暇もなかったけれど、
私は確かに京都で大学生活を送っていたんだ。
辛いことや悲しいこともあったけど、
楽しいことや嬉しいことの方がきっと多く存在していたんだ。
何より、出会えた人たちが宝だし。
そんなことを確認できたことって、もしかしたら神さまのおかげかも。
サッカーの神さま?
京都だけに、仏さまかな?
いやいや、あの 八方睨みの龍 が見せてくれた
つかの間の心の旅だったのかもしれない、そう思った。
独りでなければ、経験できないことって、やっぱりある。
2011年03月06日
なでしこ離婚相談室のボール
卒業おめでとう。
おそらく多くの生徒が、この高校での3年間のことを
楽しかったと言うでしょう。
しかし、卒業後の生活が充実することで
この高校での3年間を忘れてしまったという生徒の多い方が、
私は良いと思っています。
「卒業生に贈る言葉」 ~ 3学年職員より ~
私には、高校時代の記憶があまり ない。
高校時代の思い出で残っていることといえば、
「ザ・部活!」 のことだけだった。
あとは、地獄の自転車通学のことだけだろうか。
中学校生活があまりに楽しすぎたから、
それに比較して高校生活に楽しみを見出せなかったからだ
3年前まではそう思い込んでいた。
3年前に自分の息子が私の母校に入学して、
入学式、総会、保護者会、説明会、体育大会、文化祭、部活の試合 ・・・
母校に何度も足を運ぶうちに、
自分の高校時代が蘇ってきた。
あぁ、クラスにあんな面白い子がいたっけ
あぁ、あの英語の先生、変だったよな~
あぁ、スリッパも3年間洗わなかったっけな~
卒業式
久しぶりに校歌を歌いながら、
自分の高校生活もかなり充実していたんだと気づくことができた。
そして、息子がもらってきた 「卒業生に贈る言葉」 を読んで、
私の高校卒業後の生活も、充実していたんだと自信が持てた。
子育ては大変だけど、
自分の人生をもう一度なぞれるという特権もあるんですね。
私の人生を有意義なものにしてくれた息子に感謝したい。
卒業おめでとう!
2010年12月31日
なでしこ離婚相談室のボール
「コイツ、ケンタ」
たぶん私が中学2年生の終わりの春休み。
もしかしたら中学3年生の終わりの春休み。
同じ中学のサッカー部の男の子に 「ケンタ」 というサッカー少年を紹介された。
その子が言うには、ケンタは清水の子で、サッカーがメチャクチャ上手いらしい。
私には、どのくらい上手いのかは想像がつかなかったけど、
そこに集まっていたのは トーカイセンバツ に選ばれたサッカー少年達だったから、
まぁそうなんだろうね、っくらいしか思っていなかった。
サッカーの上手い下手よりも、私はその 「ケンタ」 という名前が妙に粋に聞こえて、
ケンタが何だか都会の子に見えていた。
だって、クラスの男の子は、ノブユキとかヤスヒロとかハルヒコとか、
4文字の名前ばかりだったから、「ケンタ」なんて初めて聞いて新鮮だったんです。
というわけで、名前の印象が強烈で、どんな顔かなんてのは全く覚えてなかった。
あの時に会った ケンタ が、長谷川健太だということを知ったのは高校に入ってからで、
その時には既に ケンタ は清水東高で活躍していて、雲の上の人的存在になっていた。
でも、有名になる前に一度会っているというだけで、
三羽がらすの中でも ケンタ だけは特別な存在で、
高校3年の選手権決勝戦の日、私は友達と国立まで応援に行きました。
そして、厚かましくも、試合前のアップをしている ケンタ を捕まえて、
「あの子の分も頑張ってください!」 と、お願いしに行ったっけな・・・
そんなことを久しぶりに草薙の球技場に行ったときに思い出しました。
私がケンタを紹介してもらった場所。
エコパが出来る前の静岡県の高校サッカーの聖地で、
「トレセン」ではなく、「センバツ」と呼ばれていた遠い昔のことを。
ケンタの高校最後の試合、国立で清水東は負けてしまって準優勝。
だけど明日、ケンタはエスパルスの監督として国立でどういう結果を残してくれるでしょう。
エスパルスよりもケンタを応援している私としては、
やっぱり天皇杯を勝ち取って欲しいと思うわけです。
そして、男!長谷川健太!を見せて欲しいな、絶対に。
2010年09月19日
なでしこ離婚相談室のボール
オレさ、小学校の頃、あの色のユニフォーム着るの、憧れてたんだよね。
どの色?
ふじ色。 でもさ、あたま足りなくて諦めたんだ。
あたま良いんだ、ここ。
オレさ、小学校の頃は天才的にあたま良くてさ、で、ちょっと うぬぼれちゃったんだよね。
そっかぁ。
だから、中学行ったら成績ぜんぜん伸びなくて、で、ここにも入れなかったんだ。
あれ? あれ、タカオじゃね? アイツ、試合に出てんだ。 スゲー!
2010年08月15日
なでしこ離婚相談室のボール
監督が県外へ引越し!?
おなご部の指揮を執る監督がいなくなってしまう。
こりゃ、一大事だよ。
衝撃的ニュースが流れたその日、おなご部メンバーは緊急に集まってミーティングを開いた・・・
ということはなくて、
「まぁ、ちょくちょく練習にも顔を出すって言ってるしー」
「宴会には来るでしょ、ビール飲めるしー」
「おなご大会には絶対に来るよね!」
と、自分達の監督が300km以上も離れた土地に行ってしまうニュースも、
極めて冷静に受け止めているようだ。
2002年に誕生したチームに、少し遅れて加入した彼は、
その昔、高校サッカーで名を馳せ(たようです)、大学、社会人と、
正統派サッカー青年の王道を歩んできた実績から、
すぐに「おなご部」の監督に就任して、おなご部を指導してくれている。
最初の頃は、フットサル素人の集まりのおなご達にイライラしていたみたいだけど、
O-40になった辺りから、コウルサイおなご達の扱いにも慣れて来たようで、
さらに、BBQ大会のコック長を勤めはじめてからは、
完全に(?)おなごの胃袋を掴んだ感がある。これ、大事。
ナガイケさんの教え子で、サッカーのことをよく知っていて、水嶋ヒロのお父さんも当てられる、
キアヌ・リーブスに似た(褒めすぎか)瞳を持った監督。
私が監督に望むことは、
また美味しい餃子を食べさせて、ってことでもなければ、
かわいい彼女を見つけてね、ってことでもないし、
年上だけど「センパイ!」って呼ばないで、ってことでもない(それは少しあるか)。
私が監督に望むことは、ただひとつ。
8年前にゴラッソを決めたとき以上のボールを、もう一度私に送ってください!
あっ、やっぱりもうひとつ。
おなご部監督は、あなたしかいません!
2010年05月04日
なでしこ離婚相談室のボール
高校最後の試合が終わった。
辛く、苦しい練習も、もうやらなくてもいい。
試合前のプレッシャーとも戦わなくて済む。
嬉しい気持ちが半分。
残りの半分は、やっぱり淋しい気持ち。
高校に入って、硬式テニス部に入部した。
硬式テニス部は、顧問の先生が熱心で、練習も厳しいという噂を聞いたからだ。
実は中学のときに体操部に入っていたのだけれど、
(あまりの体の固さに未だに信じてくれない友達もいるけど・・・)
顧問の先生は全然指導に来てくれなくて、
試合前に珍しくちょこっと顔を出したかと思うと、
それまで私たちが一生懸命練習して形にしてきたものをひっくり返し、
そのまま試合に出て悲惨な結果を残す、ということが何回かあった。
もちろん、中学最後の大会もそんな感じで、
そんな先生を恨んだし、
そんな結果になるのがわかっていて、何も出来なかった自分たちが悔しかった。
大会が終わった後、人生でベスト10に入るくらい泣いたことを今でも覚えている。
そして決心した。
高校に入ったら、毎日指導に来てくれる先生がいる部活に入ろう!と。
予想通り、テニス部の練習は本当に厳しくて、
朝はコート整備、練習では’振り回し’、
雨が降れば校舎内の階段を何往復もして、
コートが使えないときはグランドの観覧席の階段トレーニング。
お陰で、すぐに「足がししゃも」になりました。
高校2年生のGW前。
1つ上の先輩の最後の大会が迫った練習中、ふと、友達が言った。
「先輩たちは何であんなに必死に練習するんだろう?
テニスで一生食べていけるわけでもないのに・・・」
そうだ、そうだよね。
何のために辛い練習をやっているんだろう?
テニスで大学へ行くわけでも、一生食べていくわけでもないのに。
でも、先輩達が引退した後も、
私たちはまた同じ苦しい練習を繰り返し、
サボりたいけどサボれないジレンマと戦い、
ふくらはぎの「ししゃも」は立派に成長し、
そしてまたGWに、最後の大会を迎えた。
あれから20年以上も経った今年。
奇しくも、私の隣であのセリフを言った友達と一緒に、私は息子の最後の試合を観戦した。
テニス部のトレーニングでしごかれた、あの観覧席の階段に座って。
残念ながら、息子は最後までピッチへの出番がなかったけれど、
サッカーで大学へ行かなくても、
サッカーで一生食べて行くわけではなくても、
高校の2年間、苦しい練習を頑張ってやってきたことは、無意味ではないよ。
それは、とても尊い、価値のあることだよと、今なら私も言える。
2010年01月24日
なでしこ離婚相談室のボール

ブラジルに行かなきゃ!
そう決意した5年後。
上空から初めて見た本物のブラジルは、聞いていたとおり赤土の大地だった。
伊丹空港を飛び立ってから、すでに丸1日半。
地球の反対側にあるブラジルにやっと着いた。
ブラジルは危ない。
スリやひったくりは当たり前。強盗事件もよくある。
女の子は行かない方がいい。
周りの人は親切心からそう忠告してくれたけれど、
4年間ブラジルのことを勉強した私には、
そんな事は実際にはそんなに起こらないと思えたし、
それより何より、私には使命があった。
ブラジルでサッカーを観る!
なのになのに、ブラジルに到着したその日。
サンパウロのセ広場(ここは本当に危ないです)を歩いていたら、
突然、眉間に衝撃が走った。と同時に、地面を転がる1個のコイン。
どうやら日本人の女の子を狙って、誰かがコインを投げつけ、それが見事命中。
狙われた!というショックと、やっぱりブラジルは危ない国なんだというショックで
しばらく足の震えが止まらなかったけど、
この先制パンチのお陰で、その後の1ヶ月の滞在中は危ない目に遭わずにすみました。
ブラジル人のコイン投げの名手よ、オブリガーダ。
サントスFCは、「サッカーの王様・ペレ」や、KAZUが在籍していたクラブで、
ここを訪れないとブラジルサッカーの旅は始まらないということで、すぐに行った。
ブラジルを1周(半周?)した後、リオに着いたときは、
そりゃ、世界一のマラカナンスタジアムに行かなきゃでしょ、
ということで、チケット買って何かの試合を観た。
リオに来たなら、ZICOのフラメンゴに行かなきゃ、
ということで、フラメンゴのスタジアムにも行きました。
この日は確か休みだったような・・・
そして、ブラジルで自由に行動できる最後の日。
もう一度、サントスFCを訪れた。
ブラジルに行かなくっちゃ!
ブラジルでサッカーを観なくっちゃ!
17歳の私に使命を与えた出来事は、あの年の今日起こりました。
でも、それがあってもなくても、ブラジルサッカーは私を魅了していたと思う。
何てったって、サッカー王国なんだから。
2009年12月04日
なでしこ離婚相談室のボール
早起きして、’クラシコ’を観戦した。
’クラシコ’というのは、スペインリーグでの、レアルマドリッド vs FCバルセロナ の試合のことだ。
政治的に長く対立関係にあるマドリッドとバルセロナに拠点をおくチーム同士の対決は
毎回、サッカーファンの注目の集める。
今回は、バロンドールの候補者が6人も一緒にピッチに現れるという意味でも注目を集めた。
結果は、1-0でバルサ勝利。
今のバルサにはどこにもかないません、はい。(ルビン・カザンは勝ったけど)
クラシコの中継終了後、続いて、ナカムラシュンスケ出場試合を生中継するというので、
そのままテレビの前にいたけれど、時間は朝の5時。
現地スペインの時間は夜の9時。
夜の9時にキックオフ?
試合終了は夜の11時!
選手も観客もお疲れさまです。
そもそも日本では、サッカーと言えばデーゲームしかなくて、
ナイトゲームといえばプロ野球を指していたように思う。
日本でサッカーの試合を夜にやるようになったのは、
Jリーグが始まってからか?
Jリーグ開幕の、あの、夜空に花火を打ち上げたチェアマンの開幕宣言。
あの頃から、日本のサッカー界にナイトゲームが普及したんじゃないかなぁ。
思い出す限り、私が一番最初にサッカーのナイトゲームを観戦したのは、
90年イタリアワールドカップ、ローマのスタジオ・オリンピコ。
初めての夜のビッグスタジアムの最上席で思ったことといえば、
スキラッチってすごい!
な~んてことでは全然なくて、
照明に当たっては落ちてくる無数の虫をどうしたら気にせずに試合に集中するか!ってことだった。
南回りのフライトは疲れる。
ピザやパスタはイタリアで食べるに限る。
イタリアでは紅茶は飲んではいけない。
ゲルマンの人々はやたら体が大きい。
イタリアで学んだことはいっぱいあるけど、そのチャンピオンに輝いたのは、
「ナイトゲームは照明灯の下では絶対観ない」
イタリアの夜のスタジアムで学んだルールです。
2009年11月01日
なでしこ離婚相談室のボール
あれは多分、中学2年の3学期の初日か2日目くらいのことだったと思う。
既に大勢集まった視聴覚室のテレビには、藤色のユニフォームが映っていた。
みんなヒガシコーの試合を観戦しようとこの部屋に来ていた。
当時、学校で一番大きなテレビが視聴覚室にあって、
きっとサッカー部の何人かが、家に帰ってからだと試合に間に合わないから、
「視聴覚室で観よう!」ということにしたんだと思う。
それを聞きつけて、あんなに大勢の生徒が視聴覚室に集まっていた。
私もそのひとりだった。
普段はとても出来なかったけど、机の上に座ったり、机の上に立ったり、
机にイスを乗たりして、みんなそれそれテレビが観れるように頑張っていた。
いや、テレビを観るというよりも、ヒガシコーを観たかった。
選手権に出たそのチームには、中学校の先輩が何人かいたし、
何よりも藤色のユニフォームに憧れているサッカー部員もいっぱいいたから。
結局(確か)、その試合でヒガシコーは負けてしまったけど、
大勢で1つのテレビを観るという、道徳の時間以外のテレビの使い方を
私はその時、初めて体験した。
みんなで同じ1つの「ヒガシコー頑張れ!」という気持ちを共有した感動も味わった。
生徒たちが大勢視聴覚室に集まって、勝手に学校のテレビをつけて観ている。
先生もきっと知っていたと思うけど、「やめなさい!」なんていうヤボな先生はいなくて、
その次の日も何のおとがめもなくて、ただただその日のことは良い思い出として残っている。
まだ 「パブリックビューイング」 なんて洒落た名前もついていない昔の、
ちょっぴりドキドキの楽しい良い思い出。
2009年09月30日
なでしこ離婚相談室のボール
4歳のときからサッカーを始めたという人に会った。
私がサッカーを始めたのは・・・ 何歳だと言えるんだろう。
フットサルは2002年に始めたけど、サッカーはいまだにやってないのかもしれない。
毎日毎日サッカーに触れてはいるものの、やっているとは言えない。
初めてボールを蹴った頃のことは覚えている。
中学1年生のとき、同じクラスのサッカー小僧にリフティングの相手をさせられた。
ボールを蹴ったこともない少女(その頃は少女です)に、いきなりのリフティング。
当然ボールはあっちこっちに飛んでいったと思うけれど、
そんなことは全く覚えてなくて、ただただ楽しかったことだけ覚えている。
あの後、中学生独特のムズカシイお年頃になって、
サッカー小僧は私を相手にしてくれなくなったけど、
私は密かに家の庭でリフティングの練習をしていた。
あのときは本当にサッカーがしたかった。
藤枝に女子サッカーチームがあるということだけは知っていたけれど、
幼い私にはどうしたらチームに入れるのか全く見当がつかなかったし、
なぜかわからないけど「もう遅い」と思ってしまって諦めた。
実は足がこれ以上太くなるとイヤだと思ったせいある。
今は女の子がサッカーをすることも普通になるほど環境が整っている。
人工芝で、汚れずにボールを蹴れる時代になった。
私がもう30年遅く生まれてたら、迷わずジョッカーになって、なでしこジャパンに入って・・・
妄想は広がるばかりだけど、
もし生まれるのが30年遅かったら、毎日サッカーに明け暮れてて、
こんなにいろんな試合を観たりできなかったかもしれない。
自分がサッカーばかりやっていて、もしかしたらサッカーを嫌いになってしまっていたかもしれない。
それにもし生まれるのが30年遅かったら、
私にサッカーのすばらしさを教えてくれた‘サッカー小僧‘には会えなかったんだろうと思う。
そう、きっとそうなんだろう。
2009年09月30日
木曜日のボール
「木曜日のボール」をご存知ですか?
知っているという方は、かなりのサッカー通だと思います。
数年前までサッカーマガジンで連載していたコラム?エッセイ?です。
書いていたのは、写真家の近藤篤さん。
近藤篤さんが撮った写真をバーンと載せて、
その写真に関連した文章が書いてあるというものです。
今ではブログなどでそういうスタイルも一般的になってきましたが、
数年前まではあまり見かけなかったし、
写真も文章も私の好みにぴったりだったので、毎週連載を楽しみにしてました。
「木曜日のボール」というだけあって、ほとんどどの回の写真にもボールが写ってて、
文章もサッカーに関連した内容なんです。
それが実に良かったんですね~。
でももう終わってしまいました

そこで私のブログのタイトルです。
「なでしこ離婚相談室のボール」
近藤篤さんのような洒落たものは書けないけど、
少しは近づきたいと思って、このタイトルをつけました。
これから月に1回くらいは近藤篤さんをお手本に「ボール」を書きたいと思ってます。
情けないものになるのは目にみえてますが、どうか大目にみてください。